ジンゴロー・ノー・タリーン

皆の衆は「桃子」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?
静岡県民ならさくらももこ氏かもしれない。
健全な埼玉県民なら、十中八九で土屋義彦前県知事の長女、市川桃子(受託収賄にて逮捕)を思い浮かべることだろう。
だが、今回の話題に上げる桃子は市川桃子ではない。
「モモタロー・ノー・リターン」のヒロインの事なのだ。
「モモタロー・ノー・リターン」……。
タイトルを聞いてどのような内容を思い浮かべただろうか?

「モモタロー・ノー・リターン」とは、
おじいさん、おばあさんのもとで育てられた桃太郎が、犬・猿・雉の二匹を一羽をお供に鬼が島へと戦いに出る。
なぜなら、悪逆の限りを尽くし、領民から金品を奪っているという鬼達を、桃太郎は見過ごすことが出来なかったからである。
旅路の果てに桃太郎がたどり着いた鬼が島は正に地獄。島自体は火山島で常に火山灰が積もり、土地はやせている。また、魚を取ろうにもよい漁礁があるとはいえない。人の住めるところではなかった。
正義心から鬼達に戦いを挑む桃太郎、血で血を洗う戦いの果て、ついに鬼の王ウラをしとめた。
「これで人々は救われる・・・。」 そう思った桃太郎であったが、周りを見渡して驚愕した。自分達が戦った鬼の中には、累々と横たわる鬼達の死体の中には、明らかに非戦闘員である女性や子供達の死体があったのだ。
やったのは自分であろうか?いや、たとえ自分で手を下していなくとも、お供の中の誰かがやったのだろう、自分は非戦闘員に手を出すなという指示を与えていなかった。
そもそも、犬・猿・雉に「非戦闘員」という概念が理解できたかは不明だが。
再び周りを見渡す。
鬼が島は地獄の島。火山島であるために、農業どころか飲み水の確保もままならない。ここで生きていくことを運命づけられた鬼達は、実は略奪以外の選択肢がそもそも存在していなかったのではないか?
我々人間が歩み寄ることで、技術や場所を与えることで、彼らの略奪を、このような結果を招くことを避けることは十分出来たのではないのか?
桃太郎の胸にある「正義」という文字が、こんなに重く感じられた瞬間は今までなかった・・・。
桃太郎は剣を捨てる。自分の行為を悔いて。自分の行為を恥じて。
鬼の王、ウラはそれなりに財産を持っており、それを一応の戦利品とした桃太郎はその宝をおじいさんおばあさんのもとへ送る。養子である自分に優しくしてくれた、愛情をもって接してくれた。その二人の愛に感謝の意を込めて。
桃太郎は故郷へは帰らない。彼は島にわずかに残った鬼の子供達のために、この島を少しでも住める場所にするために、今日もひとり、開墾のために鍬をてにするのであった。
そして、故郷では、何も事情を知らないおじいさんとおばあさんが、桃太郎から受け取った宝で面白おかしく、残りの余生を過ごしていたという。

……という反戦のメッセージをこめた物語ではない。上記のあらすじは、わしがテキトーに考えた。長くてすまない。が、ちょっと気に入っている。
 
本当の(ってか、ウソが長いよ)「モモタロー・ノーリターン」は、昔話「桃太郎」が反男女共同参画の物語であるとして、「北名古屋市女性の会男女共同参画委員会」が作り上げた新しい(思想プロパガンダのための)劇である。
インターネットで「モモタロー・ノー・リターン」を検索すると、その脚本を載せたページが見つかるので、内容を詳しく読みたい人はぜひ検索してみてほしい。と、言うか読んでほしい。アレな意味で面白い。(脚本掲載ページ
では、検索をしないという人、検索したけど結構長いから読むの面倒という人のために、あらすじを紹介させていただく。


「モモタロー・ノーリターン」のあらすじ

昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいこうというその瞬間、突然ジェンダーフリーに開眼したおばあさんが、おじいさんに提案します、「今日は二人の仕事の役割を交代してみませんか」と。
おじいさんはびっくりします。柴刈りが男の、洗濯は女の仕事だと思っていたからです。よもやおばあさんが600年後くらいに生まれる社会思想に染まったとは思いもよりません。当然反対します。
しかし、おばあさんが強く要求するのと、すぐ考えを改めるだろうと思ったおじいさんは、おばあさんのいうとおり仕事を交代します。
「女の仕事だし、簡単だろう」とおジイさんが洗濯を始めると、こりゃしんどい。洗濯は予想以上に力仕事。おじいさんはへろへろになってしまいます。
そこへ大きな桃は川を流れてきます。非力なおじいさんは悪戦苦闘して、どうにか桃を川岸へと運び上げると、それをどうにか家まで持って帰ろうとします。でも出来ませんでした、おじいさんはあきらめて家へ帰ります。
夕暮れになり、おばあさんが帰ってきました。おばあさんは元気です。柴刈りは、洗濯で鍛えられたおばあさんにとって屁でもないことです。
それに対しておじいさんは本当に使えないやつです。二人の仕事を交換した以上、夕餉のしたくもおじいさんの仕事なのに、何もしてません。桃運びでへろへろになってたのも原因ですが。
おじいさんが桃の話をすると、おばあさんは「桃を切って、分割して運べばいいじゃない」とナイス機転。おじいさんはうなだれてしまいます。
で、二人が外へ出て桃を分割するべく包丁を入れると、そこからかわいい女の子が出てきます。
ふたりは子供に「桃子」と名づけ、育てることにします。
そこでまた、思想的におばあさんに600年の後れをとっているおじいさんは、「おばあさんが子供の世話をしろ」と失言。厚生労働大臣だったら大変な目に遭う発言ですが、おばあさんは「私が生んだわけじゃないから、二人で育てましょう」と、ちょっとずれた反論
結局、子育ては分業、ということで落ち着きました。

それから月日は流れ、桃子はすっかり大きく育ちました。
桃子は腕白で、木登りをしたり、棒を振り回して遊んでいます。
おじいさんは「少しは女の子らしい遊びをしてほしい」と、またもや失言
おばあさんにねちねちと屁理屈と言葉のレトリックでうっちゃられ、「はい、おじいさんの負け」という、いわれると結構悔しい締めくくり方でねじ伏せられてしまいました。
そんな(その当時の常識を語っているはずのおじいさんが不憫な)ある日、桃子が鬼の村に行くといいます。
なんでも鬼の村では、男鬼達が女鬼達を苦しめているとか。
おじいさんとおばあさんは、やめろといいます。当然です。かわいい我が子に危険なまねをさせるわけには行かないし、内政干渉です。
しかし桃子はいいます。1人で行くのではないと。大勢の犬、猿、雉が味方だと。確かにいざというときも、動物のやったことなら国際問題になることを回避できるかもしれません。
桃子の心意気にうたれたおじいさんは、ここ数年培った料理のスキルできび団子を作りました。桃子は意気揚々と鬼が島へ。
 
―― 一方その頃、鬼が島では主婦業にしんどい思いをさせられている女鬼の皆さんが愚痴を言ってます。
内容は「家事や炊事ばかりで、何のために生まれたんだろう」「せっかく料理や家事をしてやっても、感謝の言葉も言わない」「あ~、世の中変わってほしい」といったもの。ここだけ妙にリアルな感じがします。
 
そして再び主人公は桃子へ。桃子は男鬼達のいる砦に出向き、女鬼達の地位向上を求めて対立します。男鬼達としてはこの少女を返り討ちにしてもよかったのですが、それまでの略奪の疲労が出ているため、とりあえず砦で様子を見ることにしました。
そして数日後、戦闘技能しか能力のない男鬼達の立てこもる砦は、衛生面や食糧事情などで環境が悪化し始めました。また、中には桃子の思想に賛同する鬼達も現れ始めたのです。
そんなおり、桃子の思想の素晴らしさに触れた女鬼達が、桃子に加勢を始めます。篭城戦も対に限界に達し、砦は無血開城、鬼の村での女性の地位向上が実現されました。

とまあ、これが「モモタロー・ノーリターン」のかなり具体的なあらすじである。
これはあくまで脚本をもとにわしが書いたあらすじなので、そのところ注意。あまり面白くないので、ちょっと脚色もしてる。
オリジナルの脚本は、とにかくおばあさんのせりふが多い。
何しろおばあさんはおじいさんとジェンダーフリーな論議を3度やらかすのだ。これの分量が結構ある。おかげで物語は鬼退治に行くまでのながれが非常に悪い。動物達が仲間になる過程は省略である。なぜなら男女共同参画に関わるような部分がないから。
これを子供が見て面白いはずがないのは間違いない。何しろ盛り上がる場面がないのだ。
 
しかも物語中に見られる思想は、わしからすると、男女共同参画とは違うような気がする。
それは物語中のおじいさんの描かれ方だ。
物語中、あるいは物語を通して見られるおじいさんの人間像は、というと「無能」の一言に尽きる。
おじいさんは、楽ちんな「男の仕事」である「芝刈り」にしがみつき、大変な「女の仕事」をやらせてみればからっきしだ。おばあさんは「男の仕事」をすいすいこなして見せている。おじいさんは非力なだけでなく機転も利かない。そんな描かれ方である。
男鬼も似たようなもの。分量が割かれていない分、具体的な描写は少ないが、家事一切が出来ないことに非常に比重を置いたえがかれ方だ。
これは男女共同参画の考えを反映しているのだろうか?
もし、男女が平等であるという観念に基いて描かれるとするなら、おじいさんとおばあさん、両者がお互いの仕事で苦労する姿をえがいてていいはずだ。桃子も「男の子の遊び」だけでなく、「女の子の遊び」の遊びも両方こなしてこそだろう。
この劇は、とりあえず思いついた「男(女)らしさ」――すなわちジェンダーに対して、浅薄な考えのまま噛み付いてみただけのように思える。
男女共同とはいいがたい、むしろ根底には男性(というか夫?)に対する不満や怒り、蔑視が透けて見えている。劇中に挟み込まれる女鬼達の愚痴がそれを象徴しているといっていいだろう。
それにこの物語、どうみてもある視点が欠けている。
それは「働いている女性の視点」だ。同じ仕事をしているのに男が優遇されている、出世が早い、などの女性の苦労は書かれていない。男女共同参画は、男女が仕事や社会参加の上で平等であることが骨子なのに。
「モモタロー・ノー・リターン」はあくまで「“主婦”の解放の物語」だ。これを作り、演じた団体には専業主婦しかいなかったのだろうか?
確かに主婦業はかつていわれた「三食昼寝つき」というような楽なものではない。ことに子育てとなると、24時間働いているようなものだと、4人の育児をした母は言っていた。それは改善されるべきなのだろう。
しかし、家業にいそしむ主婦の家庭内での待遇が改善されることが男女共同参画の全てなのだろうか? いや、これを作った団体にとってはあるいはそうなのかもしれないが。
この劇を「男女共同参画」と銘打ってしまうのはいただけない。この劇は、単に日常に関する表現として「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」と書いてあるだけの絵本よりも遥かにつよく男女共同参画の理念に反しているから
 
おまけ――
この「男らしさ」「女らしさ」に非常にこだわった脚本を読んでいるとき、頭の中でアムロ・レイの「悔しいけど、僕は男なんだな」というセリフが頭をよぎった。
おそらくこの劇を作った団体の人がこのセリフを、ガンダムを見たら怒るに違いない。そしてきっと「アムロ・レイ・ノー・リターン」をつくってサンライズにおこられるに違いない。
そしてこの「アムロ・レイ・ノーリターン」のウソあらすじを、わしは書いてここで発表してしまうのだろう(予告)。
 
蛇足――
あ、あと小学生の頃の記憶で申し訳ないが、桃太郎はいろいろと話のパターンが存在し、「桃太郎が女の子」という話がある。桃太郎は女の子だったんだけど、女ということがばれると鬼にさらわれてしまうので、男の子として育てた、というあらすじである。
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